「プロ」と「アマ」

ゲーム業界に限らずですが、「プロとアマの差とはどこにあるのか?」という議論をよく見かけます。この差、実際には何によって定義づけられるのでしょうか。

報酬のために仕事をするのがプロ。そうじゃないのがアマ。期限を守るのがプロ。好きなように時間を使うのがアマ。一般的な流通で商品や作品を提供するのがプロ。自己メディアで展開するのがアマ。人を満足させるのがプロ。自己満足で終わるのがアマ……。色々切り口はあると思うのですが、どれもしっくりときません。言葉の使われ方にもそもそも違和感があって、例えばプロレスとアマレスって、僕からしてみればどちらもプロの仕事だと思えますし、「プロ市民」や「意識高い系」なんてのがじゃあプロなのかというと、うーんという気もします。

プロとアマの線引きは、元来難しいものなのかもしれませんが、そういえば若いころのバイトで、「おお、これがプロか!」と感じた出来事をぼんやり思い出しましたので、それについて書いてみます。

アルバイトの思い出 その1

10代の終わり頃、テレビ番組制作の現場でいくつかアルバイトをしたことがあります。その中のひとつに、スポーツ中継のバイトをやったことがありました。特段なにができるわけでもなく、先輩の紹介でモロモロの雑用をこなすような役割で入ったバイトでしたが、そのときに見たカメラマンの行動に、プロっぽさを感じたことがあったのです。

そのバイトは、ゴルフ中継の撮影クルーをサポートする、という業務内容でした。ゴルフ中継をご覧になった方は見たことがあると思いますが、選手のプレイの合間に、スコアを表示したりコースを紹介したりするVTRが差し込まれることがありますよね。そしてVTRからプレイに戻る際、コース脇に咲いている花などをワンカット差し込んで、選手の映像に繋ぐ、という演出がゴルフ中継ではよく行われるのですが、僕はそんな、選手のプレイ以外の外部映像を撮影する班の雑用として、コースを周っていました。

さて、中継の最中、僕らの班の映像が挟み込まれるタイミングがやってきました。近場には、ハイビスカスの花が咲いています。カメラマンは、その花弁を撮影しようとしたものの、ハイビスカスは、ぬかるんだ水たまりの上を覆うように咲いていました。僕は客観的に、普通に水たまりの手前からハイビスカスを撮影するんだなと思ったのですが、カメラマンはおもむろに、水たまりに片膝をついて、花に対して近距離でカメラを構えたのです。少しでもいいマクロ状態でハイビスカスを撮影するために。

カメラマンには、水たまりを避け少し離れたポイントからハイビスカスを撮る、などという意識はなかったようでした。少しでもいい画を撮る、という目的の前には、ズボンがドロドロになるという事実は、なんらその行為を抑止する力にはならなかった。たかが2秒弱の、大して影響のない画を撮るだけなのに、です。

アルバイトの思い出 その2

また、別のテレビ番組制作のバイトではこんなこともありました。スタジオでのバラエティ番組の収録中、ディレクターの指示で、複数のタレントさんが口から牛乳を吹き出す、というシーンを撮ったときのこと。何度か試すも、どうやらディレクターのイメージとは違うらしい。そこで、飛び散った牛乳を一回全部拭いてくれ、と指示が飛んだわけです。ADのADみたいなバイト員だった僕は、柄の長いモップでビシャビシャの床を拭きました。しかし、量的にモップでは追いつかず、刷毛に吸い込まれた牛乳を絞るためバケツにモップを持って行きます。しかし刷毛の部分のほうがバケツより幅が広く、モップがバケツに入らずうまく絞れない。まごまごしていたその刹那、本職のADさんの激が飛んできました。「バカ野郎!」

そのADさんは、刷毛の部分を素手で鷲掴みにし、バケツに牛乳を搾りました。そしてそのまま床に這いつくばり、刷毛部分を直に手で持ちながら床を吹き始めたのです。牛乳を含んだモップの臭さは中学時代の掃除道具入れで身に染みている僕も、慌てて同じようにして床を吹きました。

プロとアマの境界は、実はその瞬間にどれだけ必死に立ち向かっているか、ただそれだけなのではないか。報酬の多寡や完成後の評価をイメージすることも、もちろん過程において大きな意識差にはなるとは思います。が、決め手になるのは、直面するその瞬間に殉じる、精神的な純度の高さだけなのではないか。

「今に殉じる純度の高さ」を、ゴール地点をイメージした上で発揮し続けられる。それがある人は、なにはどうあれプロと呼べるのではないか。昔のことを思い出しつつ、現在アドバイザーとして参加している「集英社ゲームクリエイターズCAMP」 に登録されている、まさに今に殉じているポートフォリオの数々を見ながら、改めてそんなことを思うのでした。