ゲームへいらっしゃい。

図書館の想い出

まだ子供が小学生だった頃の、とある日曜日。夏休み明けにテストがあるというので、娘と図書館に行きました。ウチから近所にある図書館は、当時まだできたばかりで、そのぶん設備は最新でした。自動書架が採用され、取り出しはスピーディ。本にはICタグが埋め込まれていて貸し出しは無人。閲覧席の予約も専用の端末から可能です。しかも駅から直結で利便性は抜群……というわけでちょこちょことお世話になっていたのですが、夏の終わりの図書館って信じられないくらい混んでいる。児童用、中高生専用、大学生社会人専用、PC専用などに分かれた座席は、合わせるとざっと200席はありました。が、毎度すんなり座れたことがありませんでした。

僕自身が中学生の頃、やはり家の近くに図書館ができたことがありました。緑地公園とセットで、その敷地内にキレイなハコが建てられたのです。中学一年生だった僕は、最初の頃はその図書館によく足を運びました。今でこそ読書がわりと好きですが、当時はもちろん、漫画以外の本など読みません。あまつさえ夏休みの宿題をやりに行く、なんてこともなかった。ではそんな僕が図書館に何をしに行っていたかというと、緑地公園で遊んで渇いたのどを潤しに、冷水器の水を飲みに行っていたのです。

なぜに図書館?

なので、大人になって混雑している図書館に足を踏み入れたとき、勉強している人の多さにちょっと面食らいました。学生さんがテスト勉強をするのは分かりますが、社会人の皆さんも、単純な調べ物から何らかのレポート書き、資格の勉強などさまざまなことをされている。生涯一学徒という言葉もある通り見習わなければなあとも思う一方、ふとした疑問も湧いたのです。そもそも、「なぜ、図書館でそれをするのだろう?」と。

必要としている情報を、図書館にある膨大な本に求めている、ということは容易に想像できるのですが、それもネットが自宅にあればある程度解決するはずです。ではネット環境がない人ばかりが情報収集のために来館しているのかというと、逆にそれっぽいお年寄りは少ないし、皆さん結構スマートフォンをちょこちょこ見ているので、その限りではない。

かたや学校から出されている子供の宿題を見ると、“ネットで調べるのはやめましょう”“ウィキペディア禁止”と書いてあるので、ネット以外の情報源として図書館を利用している、ということはわかります。でも、情報閲覧とは無縁の勉強(計算問題や手持ちの問題集を解いたり)をしている子もたくさんいて、やはり図書館の“本”という情報源のみを目当てに座っているわけでもないなあと感じたのです。

映画『耳をすませば』では、主人公の少女が、自分が借りようとした本が、ことごとく先に同じ人に借りられている、ということを貸出カードの名前で知ることを皮切りに、ほのかな恋の物語が始まります。システム化と個人情報尊守の観点から、今の図書館から貸出カードはなくなりつつありますが、それでもそういった図書館が持つ物語的なイメージ、漂う匂い、情報、記録といった、データが固着化した「本」が放つ世界観に、情緒的な濃い魅力があるのは確かです。

図書館が密かに放つルール

きっと、その空気感みたいなものを求めて図書館に集っている、ということはあると思いますが、それに加えて僕が大事だと思うのが、図書館ほど、通底したひとつの共通理解のもとに成り立っている空間はない、ということです。その共通理解とは、“人の迷惑にならないよう静かに利用する”というルールです。

このルールのすごさは、「本」によって“学ぶ”意識のある人が“静かに”利用するという要件によって、ある一定の属性を持つ層、それは、本に興味がなく、学ぶことから逃げ、うるさくするような“迷惑をかけそうな人”の流入を、そもそも排除しているところにあります。そういった人々は、前提条件としてそもそも図書館には来ない(来るとしたら、喉が渇いた中学生だけです)。これによって構築されている場所としての居心地の良さは他に類をみず、それがすなわち大きな求心力に繋がっているのだと思うのです。やるなあ、図書館。

ゲームが叶えられること

数年前、とある図書館が、「夏休みが明けて学校が始まることがつらいと思う子は、図書館にいらっしゃい」という趣旨のツイートをし、話題になりました。「マンガもライトノベルもあるよ、一日中いても誰もなにも言わないよ、図書館を逃げ場所に使ってもいいよ」という発信をしたのです。

なぜか? その意味を、夏休み明けの9月1日に、色んな事情から、残念ながら自ら命を絶つ子供が多い、という内閣府の調査結果の記事を読み、理解しました。これは、図書館の居心地の良さが手を差し伸べる、“救済”なのだと。

ふと考えると、ゲームも同じです。ゲームは、原始の世界にも行けるし騎士にもなれるし空も飛べる。恋もできるし悪い奴らを倒すヒーローにもなれます。自分の代わりに自分のキャラクターがやられてくれるし、また生き返ることもできる。うまくいかなければ、ガンガンにリセットをすればいいのです。ゲームそのものはバーチャルかもしれません。しかし、ゲームを遊んでいることそのものは、紛れもない“現実”です。その面白い現実を、存分に楽しめばいい。その楽しさを提供するために、人生を尽くして頑張っている人たちがいます。

だから、僕もこの場を借りて言いたい。

つらいことがあれば、遠慮なく、「ゲームにいらっしゃい」と。